ブログ“Pseudoinquisitor”では作者の小さな冒険談を扱いますが、こちらでは冒険のための技術・装備研究を行う予定です。
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愛知大学山岳部薬師岳遭難を推理する

2020.01.26 Sunday : : comments(0) : -

つい先日、刊行されたばかりの
羽根田治 (著)、「十大事故から読み解く 山岳遭難の傷痕」を早速読みました。

1章 1913年の「聖職の碑」木曽駒ヶ岳集団登山事故
2章 1930年の東京帝大の剱澤小屋雪崩事故
3章 1954年の富士山吉田大沢の大量雪崩事故
4章 1955年の前穂高東壁で起きたナイロンザイル切断事故
5章 1960年の谷川岳一ノ倉沢宙吊り事故
6章 1963年の薬師岳愛知大学大量遭難事故
7章 1967年の西穂独標で起きた高校生落雷遭難事故
8章 1989年の立山で起きた中高年初心者の大量遭難事故
9章 1994年の吾妻連峰スキー遭難事故
10章 2009年のトムラウシ山ツアー登山事故

十大遭難とあって殆ど耳にしたことがあるものばかり。

ただ、今回の著者は少し歯切れが悪いように思います。
というのも自身が書いておられるように古い事件が多く、体験者に語ってもらうことができず、遭難報告書などから再構成するより仕方がなかったからだそうです。

しかし、既に知っていることも多く、少々物足りないのも確かなので、私も補足推理してみようかと思います。
これは、私自身の研究のためであって、遭難を蒸し返して非難するためではありません。

この十大事件の中で一番興味があったのは、第6章、薬師岳愛知大学大量遭難事故でした。
愛知大学山岳部が1962年年末から北アルプス薬師岳の厳冬期登山を行い、13人全員が死亡したという事件です。
この1962年年末から1963年にかけて記録的な豪雪となり昭和38年をとってサンパチ豪雪と呼ばれています。

愛知大学隊は、この豪雪の中を12月26日に有峰近くに到着。
翌日より登山開始。28日に三角点付近にC1を設営。29日には太郎平小屋に到着しています。

いわば、極地法の練習で、太郎平から薬師岳の中間点にも、わざわざC3を設営してから前進したりもしています。
順調に捗ったわけではなく、前日ルート工作のためにラッセルした道が降雪のために使い物にならなかったり、停滞も繰り返したようです。

同時に登っていた日本歯科大学山岳部員が「極地法はエキスパートでもなければ成功しない」と述べた部分がありますが、
ヒマラヤの初登を目指してフィックスロープを置くルート工作でもなければ意味がなかったのでしょう。
むしろラッセル隊と荷揚げ隊に分け、交代しながら上部を目指すという方法のほうが無駄が少なかったのではないでしょうか。
ただ、ヒマラヤ遠征を考えていたとありますから、練習だったと考えれば納得はいきます。

しかし一番の原因は豪雪で、人数を集めた捜索隊でさえも1月20日に有峰から捜索を開始し、太郎平小屋に着いたのはなんと25日になってからです。
夏ならば半日距離の登山を6日もかけなければ太郎平小屋にさえ到着できないという最悪のコンディションだったといえましょう。

愛知大隊は、太郎平小屋で停滞・全員揃ったのち、1月2日に薬師岳登頂を目指します。
薬師峠を越え、上に書いたように薬師平にC3を設営したのち山頂へと向かいます。

このC3は新入部員が多かったために安全策として計画されたようで、まったく使用されなかったことから時間の無駄だと指摘されたこともあるようです。
しかし、設営には40分程度しかかかっておらず、もし東南尾根から脱出に成功していれば、途中に避難場所が存在したのは心強かったことでしょう。

日本歯科大学山岳部も同時に登頂を目指しており、この先、(現)避難小屋と薬師岳頂上の中間で出会います。
日歯大隊はそのまま薬師岳に向かいますが、愛知大隊は何故かここで引き返します。
そして帰路に道を間違え全員遭難という事態となったものです。

日歯大隊と合流したのは、山頂まで300mほど、20分程度の距離だといいますから、迷い込んだ東南尾根分岐のほんの100m程先と思われます。
ここで小休止して、引き返す方針を相談した後、下山開始直後に、あっさり東南尾根に踏み込んでしまったまま気が付かなかったのでしょう。
ここで指摘されているのはリーダーとされているYさんが地図もコンパスも持っていなかったとされていること。
これは本当なんでしょうかね?

彼らは冬山合宿に備えて、かなり綿密に装備や計画を立てていたように見えます。
あくまで推測で、遭難途中で紛失したり、後に述べるように隊を別けたときに他のリーダーに貸与したのかもしれません。
確かに、本来の登山路は南西に伸び、東南尾根に迷い込んだのならば南東方向ですから、コンパスさえあれば道を間違えたのは容易に気がついたはずです。
少なくとも、方角の確認を怠っていたとは言えそうです。

道を間違えた1月2日は、東南尾根を薬師沢小屋方面に進んだ約2.5km地点でビバーク。

このビバーク地点で6人が固まって発見されていますが、それ以外の部員はかなり広範囲に分散して発見されています。
これはどういうことなんでしょう?
大学の正式な遭難報告書の「薬師」には記載されているのかもしれませんが、ビバーク後について言及された文献は少なく、羽根田さんの本にも推定すらされていません。

遺体の発見場所を記した概念図が、下記「薬師岳遭難」山田義郎に載っています。
これを、カシミール3Dの地図上で再現してみました。

登山ルートである薬師岳に最も近いところで発見されているのが1年生だったYさん。それ以外は2人あるいは3人とまとまって発見されたようです。
1年生だったYさんが最初に脱落し、その後2人、また2人と脱落していったようにも見えますが、

1月3日 の記録

「ラジオでは北海道で遭難があったそうだが、われわれは絶対に帰る。その気力十分。どうしてこんなところにこのままの状態としておろう」 (尾崎)
「一年生が相当疲れている」「われわれは道を間違えたようだ」(林田)。

山岳部「薬師岳遭難」山田義郎;愛知大学史研究(創刊号;2007年)

これを読むと1月3日の時点では、1年生といえども「疲れてはいるが無事」だと読み取れます。
つまり、ビバーク地点では全員揃っていたと考えられるわけです。
そして、ルートを間違えたと認識していたわけですから、この日以降、薬師岳方面へ戻ろうとして遭難が始まったのでしょう。

ここからは、すべて推理ですが、

彼らはビバークした翌日ではなく、一日置いた1月4日に行動を開始します。
同じ山域にいた日歯大隊は翌日の1月3日は吹雪のため太郎平小屋に閉じ込められ、彼らも1月4日に下山を開始しているからです。
また、記録係だった2年Oさんの日誌が1月3日を最後にしているのもこれを裏付けます。

4年生リーダーのYさんはビバーク地点で他の5人とともに発見されています。
おそらく動けなくなった5人とともに残留し、サブリーダー達に救援を求めに戻らせたのではないでしょうか
一日以上雪洞に閉じ込められていたわけですから動けなくなった部員が多くなるのは当然のことのように思えます。

あるいは、遺体が最後まで発見できなかった2年Sさんと1年Tさんは黒部側のガレ場で発見されていますから、彼らが滑落したために疲労していた低学年生と共に停滞せざるを得なくなったという可能性もあるかと思います。

救援を求めに先を急いだ5人は、ピーク3の2,730m付近で1年生のOさんが動けなくなります。
4年のHさんがこれに付き添い、残りの3人が太郎平小屋を目指します。
次いで、2年のMさんと1年のUさんがピーク4の2,760m付近で動けなくなり、
最後まで残った1年生のYさんが、もう少しで東南尾根を脱するピーク6の2,800m付近まで登りつめたというのがビバーク後の経過なのでしょう。

私は当初この遭難を、「絶対的なリーダー不在」が原因なのではないかと考えていました。
というのも3年生が参加しておらず、登山中も隊を何度も組み換え、登頂も当初計画とは異なり全員で目指すという、良く言えば柔軟、悪く言えば優柔不断な実施に思えたからです。
折しも、世は60年の安保闘争、高度成長期。大学生の価値観というか日本人の生き方が変化している時期でした。

海でも大学ヨット部の遭難が頻発するという現象がおきていたそうです。
このヨット部の遭難は、「オーナー不在」と「艇長不在」という民主的運営というのが原因であったと、日本オーシャンレーシングクラブ理事は推定しています。

大学山岳部においても全てを話し合いで決定していくような、危機に際して絶対的な指導者が存在していなかったのではないかと思っていたのです。
しかしながら、こうして推理していくと、4年生はその任務を果たしているように見えます。

誤算だったのは、やはり豪雪
救援を求めに急いだとしても、救助隊が有峰から太郎平に到着するのに6日もかかっていたのであれば、無理だったと言わざるを得ません。
最も早く現場に到着したのは朝日新聞社のヘリで、このとき『中国の旅』で悪名高い本多記者が太郎平小屋付近に強行着陸し、
「来た、見た、いなかった」とやっているわけですが、これも愛知大学が14日に遭難届を提出してから8日も経った22日となります。

可能性があるとすれば、登頂を果たした日歯大隊に太郎平小屋で追いつき、救援要請を依頼できた場合でしょう。
日歯大隊は吹雪のため1月4日まで太郎小屋に滞在し下山を開始しています。しかし猛吹雪のため人家のある大多和峠・北陸電力有峰監視所に着いて下山報告を電報するのが1月9日。
この時点で、愛知大遭難から1週間も経っているわけですから、やはり生還の可能性は低かったと言うより仕方がありません。

東南尾根に踏み込みさえしなければ、そして早期に気がついていればというのが全て、と思わざるを得ません。

東南尾根は地元の人間には、迷い込みやすい緩らかな尾根と認識されていたようです。

愛知大隊は事前に2回も下見をしていたそうですが、無駄と指摘されたC3をその迷いやすい東南尾根分岐に設営するという工夫があってもよかったのかもしれません。
(ただ、この場所は風が強くて設置できないかも知れないけど・・・)

あるいは(現)薬師岳小屋あたりに設営されていれば、緊急時に逃げ込めるほか、テントならば道標として大きな目印になり得ます。
道標がわりに置いた小旗はすべて見えなくなっていたそうです。

C3は単なる距離的中間点ということで設定されたように思えますが、太郎平小屋からほど近く重要度が高いとは思えません。
確かに薬師平も、現在のようにケルンが高く積まれていなければ迷いやすい地点とは思いますが、テントでなくてもよかったように思います。

こうして考えると、これだけの大人数を仕切るには、まだまだ未熟であり、幾つかの計画・判断にミスはあるものの、隊は正常に機能していたように見えます。
ある意味、やはり大学山岳部と理解できる行動だと思えるわけです。

コレに対して、正常じゃないと感じるのは、
8章 1989年の立山で起きた中高年初心者の大量遭難事故
9章 1994年の吾妻連峰スキー遭難事故
中高年から独学で始めた登山が嵩じ、技術もないのにリーダーが強力すぎて、他人まで巻き込んでしまった例と思わざるを得ません。

JUGEMテーマ:ノンフィクション

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2020.09.17 Thursday : - : - : -
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